ネガティブな感情は恥なの?
「私は今はやりたくない」「私は嫌って感じてる」
そんな感情を持つことは悪くない。
それなのに、なぜか自分の中に閉じ込めてしまう。
「やりたくない」は甘えかな?
「嫌!」って言ったらどう思われるだろう?
ただ湧いてきた感情を、そう感じた自分を攻めてみたり、
まわりの人たちの視線を気にしてしまったり、
どうしてか? 自分の感情に蓋をして閉じ込めてしまう。
ストレートに感情を出すのは恥ずかしいことですか?
大人の世界では今、その感情をありのまま受け止めるってことをする人が多くて、
自分で「嫌なんだなー」って受け止めてあげることが大事っていうけれども、
感情を閉じ込めちゃう人が、内省するのって、とても難しい。
内省して、自分を受け止めているようで、受け止めていない。
結果、その感情は違うかたちで立ち現れてくるように思う。
身体が疲弊したり、呼吸が浅くなったり、熱を出したり、
違う感情にすり替えられて、過度に癒しを求めたり、褒めてもらいたくなったり。
他者に向かって伝える必要はないかもしれないけれども、
その出発点になった感情って、ストレートに出しちゃ、いけないのかな?
湧き上がる感情を抑えることが良いことなのか?
湧き上がった感情のままに生きた経験がある人だけが、
その感情を受け止め、内省を繰り返すことができる。
そして、いつか他者の感情も受け止められるんじゃないかって、思う。
私自身も、言いたいことを言っているようで、感情は出さないほうだった。
辛い、いやだ、不安で仕方ない、、、
ネガティブな感情が自分にあることが恥ずかしかった。
それは違うんじゃ? って思っても、
言わないほうが良いっていう選択をしたことも多い。
でも、最近、自分の感情を思いっきり出してみることにチャレンジしている。
そうすると、その感情の奥にある、恐れや怒れの理由が見えてくることが多い。
恐れの正体を掴むと、なんだか自然と覚悟が決まってくる感覚がある。
「それは嫌だな」「それは違うと感じる」って言われる仲間たちは大変かもしれない、、、ごめん。
今日、理事を勤めているユース・レジリエンス研究所の仕事で
不登校の生徒たちが通う板橋フレンドセンターを通しても感じたこと。
「今は一緒にやりたくない」
って、自分の意思を私にちゃんと伝えられる生徒はすごい。
きっと、彼らは次の階段を一歩ずつ、自分をごまかさずに歩める子たち。
「言ってはいけない」ってタイトルの本もあった気がするけれども、
もし、そう感じることが増えているならば、
「言ってみる」選択を意図的にとってみたらどうだろう?
今日、フレンドセンターのレッスンで平賀きょう子先生も言っていたけれども、
他者に言えなかったら大地に、空に、海、山に向かって叫んでみるのはどうだろう?
もう、感情に蓋をして過ごすことから卒業しませんか?
大人だって、感情を出す時間と場所が必要なんですから。
mari